発達障害は「治す対象」ではありません。それでも暮らしは楽にできます|ゆずの本音

発達障害は「治る」のか

こんにちは。発達支援ゆず代表の西村猛です。

「今から集中的にトレーニングすれば、発達障害は治ります。」
「○歳までに始めれば、定型に近づきます。」

そんなフレーズを、広告やSNSで見かけたことがある方も多いと思います。


発達障害と診断された、あるいはグレーだと言われたお子さんを前にしたとき、「治るなら治してあげたい」と願うのは、ごく自然な親心です。

だからこそ、ここをはっきりさせておきたいのです。

発達障害は“治す対象”ではありません。

今回は、「発達障害は“治す対象”ではありません。ですが、暮らしを楽にすることはできます」
という、発達支援ゆずの立場を、あえてお伝えします。

発達障害は病気ではなく「脳の特性」です

まず大前提として、発達障害は「風邪」や「骨折」のように、治療によって元の状態に戻すタイプの病気ではありません。

生まれつきの脳の働き方、情報の受け取り方、感じ方・考え方の「特性」です。
その特性ゆえに、現在の社会の仕組みや集団生活のルールの中で、「困りごと」や「生きにくさ」が強く出やすい。

それが発達障害です。

特性そのものは、良い悪いで分けられるものではありません。
ただ、「今の社会」との相性によって、困り感として表に出てしまうことがあります。


ここをまずはっきり押さえておきたいと思います。

今の医学で「定型にする治療」は存在しません

次に、医学の話です。

発達障害に関しては、さまざまな研究が進んでいます。
脳のどの部分の働きが、注意の向け方や感覚の敏感さに関わっているのか。
どのような支援や環境調整が、暮らしやすさに結びつくのか。

しかし、現時点でひとつ言えることがあります。


「脳の特性そのものを、定型発達と同じ状態に作り変える治療法は存在しない」ということです。

薬はあります。療育もあります。

けれどそれらは、「治す」ためのものではありません。
不安を和らげたり、注意を向けやすくしたり、感覚の過敏さを調整したり。

困りごとを軽くし、生活を送りやすくするための「手段」です。

「定型に近づける」「発達障害を取り除く」といった意味での“治療”は、少なくとも今の医学にはありません。

ここをぼやかしてしまうと、保護者の方を余計に迷わせることになります。

それでも「発達障害を治します」とうたう療育がある理由

ここまで読んで、こう思われるかもしれません。

「それなら、どうして“治ります”と書いたり、“治らない”とはっきり言わずにあいまいにしているところがこんなに多いの?」

理由はいくつかあります。

1.はっきり「治ります」とうたうところ

一部には、はっきりと「発達障害が治ります」「定型に近づきます」とうたう事業所もあります。

そうした表現が使われるのは、とても単純です。

「治る」「普通に近づく」と言われたほうが、「困りごとが軽くなります」より、圧倒的に魅力的に聞こえるからです。

不安な保護者の心に、最も強く刺さる言葉が「治る」だからです。

中には、「治る」という言葉を「症状が軽くなる」「困りごとが減る」という意味で、かなり広く・あいまいに使っているケースもあります。

本来はまったく違うレベルの話なのに、あえて区別せずに宣伝に使ってしまう。

私は、ここに強い違和感を覚えます。

2.「治る・治らない」言わずにあいまいにするところ

一方で、多くの事業所は、「発達障害は治ります」とまでは言いません。

けれど、「発達障害は治りません」とも、はっきりとは言わないことが多いように感じます。

多くの支援者や事業所は、本当は知っています。
発達障害そのものを「治す」方法は、今の医学にも、療育にもないということを。

それでもはっきりと言わないのは、「治りません」と伝えたときに、保護者の方が大きなショックを受けるのではないか、という怖さがあるからだと思います。

そしてもう一つは、「治るかもしれない」「良くなるかもしれない」という期待を残したほうが、結果として利用につながりやすい療育業界の空気のようなものがあるからでしょう。

私は、その気持ち自体は理解できます。

それでも、ゆずとしては、その「あいまいな優しさ」を選ばないことにしました。

ごまかし続けても、保護者の方やお子さんが後で困ることになるからです。

「治る」という言葉が保護者にもたらすもの

「治る」という言葉は、希望を与えるようでいて、その裏で大きな負担も生みます。

たとえば、こんなプレッシャーです。

  • 「今この療育を逃したら、もう治らないのではないか」
  • 「親である自分が頑張りきれなかったから、治せなかったのではないか」
  • 「お金をかけたのに、思ったほど変わらない。うちの子のせい?自分のせい?」

「治る/治らない」という物差しで子どもを見始めると、少しずつ成長している変化や、生活が楽になっている実感が、すべて「治ったかどうか」に上書きされてしまいます。

そして、期待した「治り方」をしなかったとき、傷つくのは子どもと保護者です。

療育は「治すこと」ではなく「暮らしを楽にすること」

では、本来の療育とは何でしょうか。

私は、療育を「暮らしを楽にするための具体的な工夫を、一緒に積み上げていくこと」だと捉えています。

  • 集団での指示が入りにくい子には、「一つずつ」「視覚的に」伝える工夫をする。
  • 感覚がとても敏感な子には、音・光・触感などの環境を調整し、負荷を減らす。
  • コミュニケーションが苦手な子には、「気持ちの言葉」や「お願いの仕方」を、練習しやすい形で用意する。
  • パニックを起こしやすい子には、「つらくなる前のサイン」と「落ち着くための方法」を一緒に探す。

こうした積み重ねは、脳の特性そのものを変えるわけではありません。

けれど、「困りごととして表に出てくる場面」を減らし、「自分らしく過ごせる時間」を確実に増やします。

それは「治った」とは言わないかもしれません。

でも、本人と家族にとっては、間違いなく「生きやすくなった」という変化です。

療育は、本来そこを目指す活動であるべきだ、と私は思います。

私たちが絶対に使わない言葉

ここまで書いてきたことを踏まえて、発達支援ゆずには「絶対に使わない」と決めている言葉があります。

それが、「発達障害を治します」「定型に近づけます」という約束です。

たとえ、そのほうが問い合わせが増えるとしても。

たとえ、そのほうが「希望が持てます」と言われるとしても。

今の医学でできないことを「できます」とは、言えません。

発達障害のある子どもたちを、「治る・治らない」で評価する視点には、加担したくありません。

私たちが使いたいのは、別の言葉です。

  • 「一緒に暮らしを楽にする方法を探しましょう」
  • 「お子さんの特性を、理解しやすい形で一緒に整理しましょう」
  • 「家や園・学校での“明日からの工夫”を、一緒に考えましょう」

派手さはありません。
でも、嘘はつかない。そのラインだけは、どうしても譲れません。

そして、発達特性があることと、子どもの人権が守られることは、まったく別の話だと思っています。

特性があろうがなかろうが、お子さんが存在していることに意味があり、子育てを楽しむことはできる。

私はそう信じています。

もちろん、定型発達のお子さんを育てるのとは違った大変さがあることは事実です。

だからといって、「大変だから、楽しんではいけない」わけではありません。

わが子を愛おしく思うことは、誰にでも、平等に与えられている権利です。

その感覚を取り戻してもらうことを目指すのが、本来の療育だと私は考えています。

そして、発達支援ゆずは、そこだけを目指しています。

どの療育を選ぶかは保護者の自由です

ここまでかなりはっきりと書いてきましたが、どの療育を選ぶかは、最終的には保護者一人ひとりの自由です。

「治る」と言われて、そこに賭けたい気持ちも、私は否定できません。
そういう選択をしたご家族のことを、責めたいわけでもありません。

大事なのは、「何を根拠に、どんな前提で、その言葉が使われているのか」を知ったうえで選べるかどうか、だと思います。

「治るって書いてあるけど、医学的には違うよな」
「うちは“暮らしやすさ”を大事にするところを選ぼう」

そんなふうに、自分なりの方向性を決めてほしい、という思いがあってこの記事を書いています。

発達支援ゆずが引く、一つのライン

発達支援ゆずは、小さな事業所です。
できることにも限りがあります。

それでも、どうしても譲らない一つのラインがあります。

「発達障害は“治す対象”ではありません。ですが、暮らしを楽にすることはできます。これが療育です。」

このラインを超えて、「治します」「定型に近づけます」とは言わない。

その代わりに、「いま目の前にいるお子さんとご家族の暮らし」を一緒に良くしていく。

発達支援ゆずは、そのための場所でありたいと思っています。

おわりに|「治す対象ではない」からどう生きるかを一緒に考える

発達障害は、「治す対象」ではありません。
この言葉だけを切り取ると、冷たく聞こえるかもしれません。

けれど私は、「定型に戻すこと」を前提にしないところからしか、本当の意味での「どう生きるか」「どう暮らすか」の話は始まらないと思っています。

治さなくていい。

その子の特性ごと、その子として生きていきやすくするには、どうしたらいいか。

その問いを、保護者の方と一緒に考えていく場所として、発達支援ゆずは在りたいと思っています。

こういうことを書くと、見学に来てくださる方は少ないかもしれません。

それでも、何人かでも「これはちゃんとした考え方だ」「一度話を聞いてみたい」と感じてくださる方がいるかもしれない。

たった一人でも、「ゆずを信じてよかった」と言ってもらえるなら、発達支援ゆずという場所には存在意義があると、私は思っています。

もちろん、現実にはたった一人では運営は成り立ちません。
できるだけ多くの方に、「信じてよかった」と思ってもらえたら、ゆずは続けていくことができます。

それは経営上の事情というだけでなく、この考え方が少しずつ社会に広がっていく、ということでもあります。


だからこそ、運営上は不利かもしれない、こんな記事をあえて書いています。

この記事の中で、私が伝えたいことの本質を、まっすぐ受け止めてくれる保護者の方もいると思うからです。

そんな方の心にだけ届けば、それで十分だと思っています。


一方で、「何を偉そうに」と感じる方も、きっとおられるでしょう。
そうした方には、おそらくゆずは合わないと思います。

発達支援ゆずは、こちらも利用者さんを選びます。

アンチコメントや罵倒、人格否定などの言葉は、正直なところ、すでにSNSや動画のコメント欄などでたくさんいただいてきました。もう慣れっこなので、怖くありません。笑

それでもなお、こうして言葉を選んで書き続けているのは、どこかでこの文章を読んで、「ああ、この考え方なら信じてみてもいいかもしれない」と感じてくださる誰かがいると信じているからです。

もしかすると、誰にも信じてもらえなくて、ひっそりと消えていく未来だってゼロではないかもしれません。

それでも、嘘をついて続くより、正直にやって届く人にだけ届くほうを選びたい。

私はそう思っています。